2012年12月19日水曜日

poverty

糸井重里と、元世界銀行副総裁の西水美恵子氏による対談記事がおもしろい。

経済学による貧困の定義が、

「1日1ドル以下の生活を強いられる人=貧しさ」

であるならば、西水氏は以下の価値観について話す。


見えない尺度で計るんです。
たとえば、パキスタンのお母さんと最初に会ったとき、
彼女が英語で、「This is not life. This is just keeping a body alive.」
って言ったんですよ。
「これは人間の生活ではない。動物のように、ただ体を生かしてるだけだ」


西水氏は、この状況にコミットし、精神的な尺度で貧困という状態を計るという視座について語られていた。


畑は違っても、自分にも教育学について同じ感覚を味わったことがある。

学問や理論構築の分野が教育を語る時に、何だか胡散臭い印象を受けるのは、こういったものを積み上げようとする人たちに、本当の意味で教育にコミットした経験があるのかが疑わしいことに起因するのではないかと感じる。

例えばこれまで単純に『L2熟達度において有意差がみられた』だのというタームで切り分けてきた事象が、現場では一筋縄にいかないことを知る。

子どもたちの熟達度と学習動機に関連が見られるのであれば、その背景には切っても切り出せない多種多様な要因が介在している。

子どもたちにとっての社会における様々な要因が、プラスの面でもマイナスの面でも大いに影響を与えるのである。対人関係や家庭環境、幼少期の成功経験の豊富さにおける個人差は言わずもがな、それこそ日々目まぐるしく成長する子どもたちは、発達心理学の枠組みでは包括できないくらいの心の複雑性を見せてくれる。

子どもたちの力を伸ばしたい。教育に従事したいと考えていく上で今後自分にとって大切なのは、こういった複雑性を見せながら日々成長していく子どもたちと同じ皮膚感覚を得て、本当の意味で目の前の教育現場にコミットすることなんじゃないかと思う。そういった意味では、精神的に状態を計るという営みが臨床の知の獲得へと繋がっていくのかも知れない。

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